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七十踏み目 光雲神社

14 3 月 2009 No Comment
光雲神社

●所在地
福岡市中央区西公園13ー1
●ご祭神
黒田勘解由次官孝高(龍光院殿)・黒田筑前守長政(興雲院殿)
●ご利益
幸運をもたらす。蓄財や投資・ビジネスの神かも。

光雲神社一の鳥居

マネーゲームの神さま

光雲神社参道の石段 まもなく、桜の開花を宣言する声が聞こえてくるだろうが、福岡市の桜の名所といえば、必ず西公園の名前があがる。
 桜の木は約3000本あって、日本さくら名所百選にも選ばれている。

 西公園は小高い丘が丸々公園になっていて、もともとはその小高い丘は、荒津山もしくは荒戸山とよばれていた。展望所からは荒津大橋と港湾施設が見渡せる。
 大濠公園の方から歩いて西公園へ向かうと、大きな鳥居をくぐる。この公園の中心の一つが、光雲(てるも)神社だろう。

 ご祭神は初代福岡藩主黒田長政公と、その父黒田如水。それぞれの院号の光と雲の一文字ずつをいただいて、社名とした。黒田如水と長政親子は、関ヶ原の合戦後にしびれるエピソードがある。

 関ヶ原の合戦で、徳川家康に天下を取らそうと、有力大名に積極的に働きかけたのは黒田長政で、小早川秀秋の裏切り工作などを手がけたとされる。決戦の日も奮戦し、家康から「一番の功労者だ」と手を取って感謝された。その報酬として、筑前五十二万石をちょうだいした。
 父如水は、豊臣秀吉の参謀的な役割で、天下取りを助けた。長政は父のように働いた。
ところが「関ヶ原の合戦」は、関ヶ原だけでおこっていたわけではなかった。

 2009年の大河ドラマは直江兼続が主役だが、直江兼続が一番男前だったのは関ヶ原のとき。会津の上杉家に徳川家康がいちゃもんつけて、征伐の兵をあげたことが関ヶ原の引き金になった。兼続は家康の喧嘩を買い、真正面から退治するはずだったが、家康はUターンして関ヶ原で会戦にのぞんだ。東北方面では、上杉勢と伊達家・最上家などが争っていたのだ。
 九州では、黒田如水が兵を挙げた。主力は息子にあずけていたために、金蔵をあけて近隣の百姓をやとい、9000の軍勢を仕立てた。

二の鳥居も仁王立ち

 当時、たった1日(1600年10月16日)で天下分け目の合戦が収束すると考えた人は少なく、混乱に乗じてあわよくば! と暴れ回る武将もあった。通信、交通も今日のように整っていなかったため、各地の小競り合いは関ヶ原後1カ月近く続いていた。
 如水のにわか軍勢はなかなか強く、北部九州をほぼ制圧し、島津征伐のために水俣に進んだところで休戦。その時如水のもとには4万の軍勢が集まっていたという。

 何もかもが落ち着いて、息子長政が如水に戦勝の報告をした。家康が我が手を取って喜んでくれたという件にさしかかると如水は「家康はどちらの手をとったのだ?」と聞いた。長政は「左手にございます」。するとすかさず「右手はなにをしていたのだ」。
 長政は父の動きをトレースして、天下働きしたつもりだったのだろうが、父は天下そのものを狙っていた。

 また黒田如水の一面を表すエピソードもある。彼は、ふだんはケチで節約家で、城下町を歩いてもそこら辺のご隠居さんに間違われるほど地味だった。そうやってコツコツ貯めたお金は、ここぞという時にバラまいた。戦争というのは、今も昔もお金がかるものと相場は決まっている。貯金だけではなく、運用してお金を増やしていたんではないかとも、ボクはにらんでいる。

 光雲神社の神さまは、蓄財や投資、ビジネスの神さまだと思う。

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