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七十踏み目 光雲神社

14 3月 2009 One Comment

福岡を創ったご両公

どっしりとした拝殿  黒田如水は姫路付近の出身だとされているが、黒田家はもともと岡山とか滋賀の方から流れてきた一族だった。
 いずれにせよ、一族の出身地は“福岡”という村で、黒田長政が福岡城を築いた“福崎”という土地を、改名して福岡になった。地名ごと引っ越してきたわけだ。

 筑前で特ににぎやかだったのは、商人の街博多だったが、武士の街があったのは今日で言う東区の名島辺りだった。前の筑前藩主だった小早川秀秋の居城は名島城で、如水・長政父子も名島城に入城する。つまり、現在の福岡市中央区は“中央”ではなかった。
 名島城が手狭だったのか、あるいは戦略的によろしくなかったのか。ともかく、当事は寒村だった福崎の地に城を築いた。

 博多の古地図を見ると、江戸時代以前は中央区の付近はほとんどが海だったようで、福岡城の築城とともに“福岡”という土地の大部分ができたんじゃないかとボクは考えている。
 福岡の国生みは、黒田長政を中心に行われたとすると、神さまとして祀られたとしてもボクには異存はない。

 江戸時代初期の福崎の地は寒村だったかもしれないが、古くから歴史の中に登場している。平和台球場跡から古代の外交施設・鴻臚館(こうろかん)が見つかったが、筑前・博多の水際として機能していた。本殿の屋根
 当然、鴻臚館を守る警備兵も福岡城のあたりに駐屯していて、警固という地名は防人(さきもり)の駐屯地が由来だとも。

そうそう、何でボクがずっと福岡城の話をしているのかというと、黒田如水・長政父子の御霊は福岡城内の廟所に眠っていたのだが、明治時代に荒津山の上に遷座されたからだ。

 荒津山は、愛宕山や祖原山と同じように元寇のときの戦略拠点で“ハンバーガー・ヒル”のような激戦区だった。もっとさかのぼれば、以前立帰天満宮で紹介したように、菅原道真公にまつわるエピソードもある。荒津山の麓の港から、黒田藩の参勤交代の船が船出し、近代になると、郵便を運ぶ飛行艇が離発着する飛行場もできた。
 またまたちなみに、福岡で飛行機が飛び立ったのは福岡城内からで、どうもこの山は行き交う人々の道しるべのようなもので、思わずご利益に交通安全を付け加えたくなったが、それは立帰天神さんの得意技なようだから、辞めておこう。

 江戸時代、現在の光雲神社地には東照宮があった。徳川家康を神格化した東照大権現を祀る神社。福岡城を見下ろす丘の上に東照宮を祀ったのは「ボクたちは北向いたりしません」という意思表示なのだろう。東照宮は廃社となり、明治になってそこに如水・長政父子そろって権現となって、鎮座してしまったのだから妙なものだ。

 廃藩置県で黒田一族が東京に移ることが決まってから、旧藩士から懇願され明治4年に、福岡城内の廟所が現在警固神社付近に遷座し光雲神社となった。同40年、現在地に移ってこられた。


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One Comment »

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