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七十四踏み目 鳥飼八幡宮

24 3月 2009 3 Comments
鳥飼八幡宮

●所在地
福岡市中央区今川2ー1ー17
●ご祭神
応神天皇、神功皇后、玉依姫尊、大物主大神、崇徳天皇、讃岐金毘羅宮合祀
●ご利益
何でもござれだ! 勝負のときに!

torikai07

神主大名と神功皇后伝説

鳥飼八幡宮は要塞のようだと感じた

鳥飼八幡宮は砦のよう

一の鳥居を抜けると楼門がある

一の鳥居の向こうには楼門

拝殿も武張った感じだ

拝殿も武張った感じだ

昨年5月ごろの写真です

昨年5月ごろの写真です

 鳥飼八幡宮であるからして、神功皇后ゆかりの神社である。
 ここは、三韓征伐から帰ってこられたときに、姪ノ浜に上陸されたあと、鳥飼村平山というところでご休息された。
 鳥飼村にいた豪族鳥飼氏が歓待し、神功皇后はとても喜ばれたらしく、お腹の中にいた我が子の将来をお祝いして自ら杯に酒を振る舞ったという。

 皇后様に手酌してもらうという大盤振る舞いに、よほど感激したのか鳥飼氏は若八幡宮を、篤くお祀りした。それが鳥飼八幡宮の創建である(かなりおおざっぱなようやくだが)。

 これまで訪ねた神功皇后ゆかりの地では、神功皇后の一挙手一投足が、その土地の地名のもとになった、というパターンが多かったけれど、ここはその時すでに“鳥飼”であったし、土着の有力者が地元を治めていた、ということになる。
 伝説の真偽は別として、古くからある地名である。

 鳥飼八幡宮は、居合術の稽古をしていたり、九州場所の時期には九重部屋が寄宿していたりと、武芸方面が盛んだというイメージが強く、そのせいか、ずっと砦みたいだなぁ、と思っていた。

 鳥飼氏は、八幡宮を守る宮司さん一族であり、この土地の統治者的な役割を担っていた。
 統治するには武力も必要で、戦国時代までにはほとんどが解体してしまうが、全国にはいわゆる神主大名も少なからずいた。
 九州では宗像氏や阿蘇氏、といったところ。信州では武田氏と争った諏訪氏など。鳥飼氏も神主大名的な存在だったようだ。

 鎌倉時代末には、菊池武時(菊池霊社に祀られている)が倒幕のために、鎮西探題(北条英時)を攻めたが敗れた。このとき、鳥飼(もともとあったときの)も戦場となって荒廃したそう。鳥飼氏の関わりは今のところ定かではないが、場所柄探題方についていたんではないだろうか。

 戦国時代には、大友宗麟配下の武将高橋紹運の軍勢によって攻められ、鳥飼氏は討ち死にしてしまったそうだ。その後、黒田長政が筑前に入り、福岡城を築城したときに再建。その後、黒田長政が慶長十三年(1608)に別邸を社内に建てたため、鳥飼村から「西町」に遷座。今でいう鳥飼二丁目にあったお宮も、宝永二年(1705)に移築されて、現在の今川に治まった。

 ところで、鳥飼村がもともとどこにあったのか。いろいろ調べたけれど、はっきりと分からないんである。福岡県地名辞典(角川書店)では「鳥飼村のなかに田島や別府という地名がある」というようなことが書いてあって「黒田家の別邸っていうと友泉亭のあたり?」なんて思ったが、友泉亭は六代藩主の人が建てたもの。

 古地図を見ても、西新当たりまでしか描かれていなくて…。あまり考えても睡眠時間が減ってしまうだけなので、今日はスルーしとく。
 黒田長政の伝記でもあたってみるか。

 樋井川は江戸時代、早良郡との境目であり、この近辺には豪壮な寺社が多い。金龍寺、大通寺…。城下町の防衛のための外郭として建造されたであろう鳥飼八幡宮が、砦に見えたのは、そう言う意味で正解だった。


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