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八十七踏み目 宗忠神社

23 4月 2009 6 Comments

宗忠さんの言葉

munetada04 黒住宗忠は、黒住教という教派神道の一派の開祖という位置づけになっている。
 教派神道というのは「神道系の新宗教」のことで、黒住教はその先駆といわれている。幕末の三大新宗教にも数えられていて(ほかは天理教と金光教)、教派神道には大正から昭和初期にかけて隆盛した大本教も含まれる。

 新宗教というと、サリンなあやつらのせいで良くないイメージがあるけれど、この国では信教の自由が認められているし、ボクだって認めている。黒住教が現在どんな感じなのかは、ホームページすらチェックしていないので何ともいえないが、宗忠の言葉には宗教を超えて響くものがある、と感じた。一方で、一宗教の開祖であるために、一般的に広がらないのかもな、とも感じたりもする。

 どんな宗教に属していても、人によって神さまのお姿はそれぞれに現れる。人の数だけ神さまはいるのだから、あまり先入観をもってしまうと、いろんな物事にかくれている面白みが薄れてしまう。

 言い訳が長くなったが、黒住宗忠さんの言葉をものの本から拾ってみよう。

 

「人間一人ひとりが八百万神の一柱なり」
 「有り難きことのみ思え人はただ今日の尊き今の心の」
 「海あれば山もありつる世の中にせまき心をもつな人々」
 「何事もいうべきことはなかりけりただにこにこと笑うばかりに」
 「人情深くその情に迷わぬが道なり」
 「鬼追わず福を求めず我はただ追われし鬼を福にみちびく」
 「千早振る神代も今も同じ世をみな末の世と思ふ憐れさ」
 「善人にも罪はあり、悪人にも道はあり」

 現在ちまたにあふれているポジティブシンキングは、幕末にもう唱えられていた。
 不安や恐れを抱くと、心の中の神さまを痛めることで、生きる上でもっとも避けなければならないことだという。つまり神さまの恩寵を受けられない。
 普通の善人は、善人であるがために、ちょっとしたことで罪悪感を抱いてしまう。善人の罪とは、そういうこと。悪人は倫理観がないために、思い切り悪事を働くことができるわけで、だからこそ悪が少しの間だけ栄えることもある。

 だから、いつも朗らかでいられるよう、自分の言動をチェックしていなさいという。

 西洋の自己啓発本の古典として、サミュエル・スマイルズの「西国立志編」が上げられるが、この本は1858年に出版された。
 黒住宗忠の教えは、そのまま自己啓発書のネタになりそうだが、西洋の古典と同時期に発せられていた言葉だと思うと、やっぱりすごい。 

 

黒住神社は細長い

munetada05 さてさて、黒住神社である。社殿は横長で、左右(南北)に祭壇がある。本殿の南殿の祭神が黒住宗忠で、北殿が宗忠が篤く尊崇した天照太神を祀る神明宮になっている。ご神域には神井戸(今は水は出ていないよう)や忠春社(宗忠の高弟赤木忠春を祀る)、白山社もあった。

 宗忠は、天照太神を主神、つまり一神教の絶対的なゴッド的な神さまとして捉えていた。天照太神の分霊は人間一人ひとりの中にもあるわけだから、本当は神社にお参りに行かなくても、神さまにアクセスできるのだと思う。
 でも、人は当初からアクセスする方法を忘れているらしい。

 最後に黒住宗忠流の開運法の流れを要約する。
 神さまへの感謝→神さまの開運をお祈りする→自分(祈りたい人)の御霊に感謝→自分(祈りたい人)の御霊の開運を祈る

 これもボクの解釈だが、言葉は特に気にする必要はないらしい。ただその瞬間は、真心こめること。願い事はしなくてもいい。自分に最適なことが必ずおこると、すべてを神さまにあずけるのが、開運のコツだ、ということ。

 こういう祈願法もあるってことで、認識ただければ幸いに存ずる。


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