八十九踏み目 警固神社
| 警固神社
●所在地 |
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警固大神も三柱一体の海の神さま
警固公園と警固神社。天神にあるのに、警固という地名は別にあるのに、なぜそこが“警固”なのか? ずっと不思議だった。
警固という地名は、そもそもが古い地名だ。
由来は、古代の外交施設および湾口施設(荒津付近)を守る防人(さきもり)が駐屯していた“警固所”から地名に転化した。警固所は福岡城内にあった。
警固神社は、上警固村にあった警固神社(現在の南区警弥郷)を、仲哀天皇が警固所に勧請したことがご創建だという。仲哀天皇の即位期間は、西暦に換算すると紀元2世紀末ごろ。相殿では建角身神・豊玉姫命・神功皇后・応神天皇も祀られているが、神功皇后は仲哀天皇の后で、三韓征伐の弊を率いた伝説の人。勝利の祝いに、警固大神をお祀りした。
警固大神というのは神直毘神(かみなおびのかみ)大直毘神(おおなおびのかみ)八十禍津日神(やそまがつひのかみ)の三柱。禍いやケガレを祓ってくださる神さまだという。
神話では、イザナギノミコトが黄泉の国から戻り、小戸の入り江でみそぎをした時に生まれた三柱で、この時に住吉さんや宗像さんという三柱一体で祀られる神さまも同時に生まれた。いずれも福岡県に顕現した神さまであり、海辺の神さまだとされている。
警固大神も、海辺の施設を守る神さまなので、海辺の神さまといえる。2世紀頃は、南区が海辺だったのかもしれない。
現在も天神地区は実は海に近い。が、ボクたちは天神と海はまったくイメージ的に結びついていない。警固神社が海にまつわる神さまだという認識が行き渡れば、海に開かれた都心へと変貌するのんじゃないだろうか、と思う。
警固神社の遷宮の“航跡”
警固神社は、南区辺りで創建し、福崎(福岡城内)に勧請された。鴻臚館などの外交施設は機能を失ったが、警固という地名が定着するほどに、警固大神は篤く尊崇されたのだろう。
ところが、黒田家が筑前に転封され、福崎の地に城を築くことになり、警固神社は遷座を余儀なくされた。警固神社の神域には本丸が築かれたというから、城内でも一等地に神社があったことになる。
当初は下警固村の山上(現在の桜坂とか輝国あたりと思われる)に遷座され、現在地に移ったのは慶長13(1608年)。ここには元々小烏神社があり、その境内に壮麗な神殿が築かれたという。
小烏明神は、警固大神の親神だということが当時は信じられていたようで、親子水入らずで祀られていた。が、城下町整備の過程で、現薬院あたりに住んでいた百姓は、警固村に強制移住させられることになった。
移住先に、自分たちの産土神も移動させたい、ということで、小烏神社は現在の古小烏神社に。“古”というのは「もともと」「こっちが本家」という意味で、警固神社は小烏神社と呼ばれていた時期があったのだろう。
警固神社のあたりは江戸時代小烏馬場という地名だった。小烏神社(警固神社)には流鏑馬の馬場があったからで、八十五踏み目の鷲原八幡宮で紹介したような光景がかつては見えたのだろう。警固神社では昭和の初めまで、流鏑馬が奉納されていた。
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