八十九踏み目 警固神社
糸島・可也山から来た鳥居
平成20年、遷座401年目の風景を眺めてみよう。
ビックカメラに向かい合うように建つ大鳥居は、黒田藩2代目藩主黒田忠之が奉納した。父長政が日光東照宮に奉納した「筑前鳥居」と同じ形のもので、同じ志摩郡の可也山から採れた石だという。
可也山は、糸島富士と呼ばれ、なかなか形のいい山だが、なんらかの信仰の対象だったかもしれない。
鳥居をくぐると向かって左手に、多目的ホールの神徳殿が見える。平成19年に建てられた真新しい建物では、かなり多岐にわたる催し物が開催されている。
社殿も遷座400周年に合わせて、遷宮された真新しくなった。400年の歴史を物語るのは、まずは境内に立つ樹齢300周年の大楠。街頭や電柱よりも背が高い。引いて見ないと全容が見えないので、そんな大きな樹木が立つことに気づかない人も多い。大鳥居(寛永16年)など、境内の奉納物も寄進年を見ると、なかなかの年代物が多い。
手水舎で身を浄め、社殿に向かうさい、左手にご神水もある。これも400周年を記念して造られたもので、現代の最新技術で地下水を濾過した今風な神の水だ。
社殿は赤い屋根の塀に囲まれ、楼門もどっしり。社殿といい楼門といい、木の香りが匂い立つように真新しい白木の建造物で、歴史の重みは感じられないが、清々しい。背後に西鉄福岡駅と福岡三越がどんとひかえているように見えるのは、ご神威というものだろう。
屋根飾りに、小鳥がチョコンと乗っているのがかわいい。最初は八幡宮系の「神の使」である鳩かな、と思ったが、よくよく見るとカラスにも見える。小烏馬場時代を表したものか、警固大神の「神の使」はカラスなのか。
社殿の周りには塀が巡らされ、灯籠が巡らされていて、よく見ると一つ一つ形が違う。天照大神宮と菅原神社が本殿の両脇に配されていた。
堀と川、水辺の神社ではないか
境内社に「今益神社」というお稲荷さんも合祀されている。
が、国体通り側の鳥居の扁額には「今益神社」と記されていて、単なる摂社末社ではない感じ。小烏神社と親子水入らずで祀られていたときは、こちらが小烏神社の真正面だったのかもしれない。
国体通りがわには石碑がグルリと巡らされているが、これは一つ「金壱圓」で奉納されたもの。数えてはいないが、かなりの数があった。
江戸時代の古地図を眺めていると、警固神社は川に面していることが分かる。今は暗渠となった薬院新川で、渡辺通も肥前堀というお堀だったよう。天神や大名は、張り巡らされた堀の中にできた新しい街で、水辺の街の守護神として、警固大神が遷座されたのではないだろうか。川は海につながり、ケガレを浄化する道筋でもある。人や物資が往来する道でもあり、時には悪いものが流れてくる場合もある。
以前、福岡譲と城下町整備には風水思想が反映されている、という説をご紹介した。そのために警固神社を含めた数社がシャッフルされ、それぞれが現在地に遷座されたのだ、という。ボクは端的に、水路の要所要所には道祖神のような、強力な神さまが必要とされていたのではないか、と感じる。
水郷・柳川では、堀と堀の結合点、曲がり角に寺社が水路に正面するように配されていた。
風水とか方位学に関して、ボクはそれほど知識がないので、これ以上突っ込むことはできない。だが知識がなくても、「ああ、守られているな」と無意識に感じさせるような、シンボルの配置ってできるんじゃないか、と感じている。
警固神社の場合、今はいろいろ調べてやっとそういう風に感じるようになったが、江戸時代はきっと城下の人はそういう具合に納得していたんじゃないかな。
福岡城下の都市開発は、城の防衛とか利便性を求めたものだろうが、シンボルの配列にも相当神経を配ったのだろう。機能とシンボルをうまく配列することで、神さまの威力はきっと強まると思う。
江戸の初めの開発コンセプトが、現在の天神地区の発展を導いたのだ、というのはボクの妄想かもしれないが、本当にそうだと思う。
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