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一〇二踏み目 阿蘇神社

3 6月 2009 36 Comments

伝承が大事!

aso10 高木さんには、すてきな冊子を2冊いただいた。
 「新風土記 かたえ」。こちらは片江校区郷土史研究会編ということで印刷された立派な本。
 そして方や黒いカバーに閉じられた「片江・阿蘇神社創建の謎」。こちらは高木さんの御祖父ににあたる高木一雄氏の「片江郷土史沿革」の編集中の原稿の抜粋だ。
 後者の一文に「慌ただしい調査で記された有名な学者の著名な歴史書よりも、その土地の人々に代々伝えられてきた伝承こそ重視すべきで、伝承にこそ真実が隠されている」(筆者がやや省略)といった文章があって、まことにまことに同感だ。

 ところで阿蘇神社の創建だが、片江には「菊池市が、老い松神社を片江の辺境である現在の神松寺の地に追いやって、その跡に阿蘇神社を建立した。社紋も菊池市の紋所に由来する」という伝承がある。
 老松神社は、菅原道真公=老松神と天神=雷神を祀った神社で、もともとは阿蘇神社地に鎮座していた。そこに熊本の菊池氏がやってきて、ご当地の一等地に勧請したのだという。
aso11
 菊池氏は鎌倉末期から南北朝時代にかけて、活躍した豪族で、菊池武光が棟梁の時は、後醍醐天皇の皇子懐良親王を押し頂いて、太宰府を征圧。約10年間ほど、全国的には劣勢であった南朝を有利に、いや実質的には九州を独立させたといっても過言ではない。

 武光の父・武時は鎌倉幕末に、愛宕山にある九州探題に討ち入り、凄絶な最期を遂げた。詳しくは「六十七踏み目 菊池霊社」を参照していただきたいが、六本松付近で首を落とされ、体だけは七隈付近まで馬を疾駆させていたという。首塚が六本松の菊池霊社ならば、銅塚が七隈の菊池神社。
 父親の廟を建てるならば、九州を号した武光全盛のときだろう。

 本家阿蘇神社のご祭神が「建」磐龍命に対して「武」磐龍命。武時公の武で、一文字に何か意味が込められているような気がしてならない。

 例えば、この武時公の廟を祀る一族がこの時期に移り住んできたとすれば…。
 社紋の違鷹羽は、本家阿蘇神社と同じ紋である。阿蘇氏と菊池氏は同族で、元来は、どちらかというと阿蘇氏が本家だった。というような状況証拠を集めると、創建は南北朝時代にさかのぼると思う。
 
 菊池武時公の魂だけでなく、菊池氏にまつわる戦いに関わったすべての人々の鎮魂をしたのが、阿蘇神社ではないか。
 黒い表紙の冊子ではそう結ばれていた。多少時間はかかったみたいだが、よそからやってきた神さまが地元の鎮守さんになったからには、そういう面もないとなぁ。

片江は島だった

 高木さんとのお話で、新しい発見があった。
 片江は島だった! とか。今も島廻橋という地名があるけれど、それはそのまんまを表していた、とか。博多湾はもっと内陸まで入り組んでいたとは聞いていたが、ここまでとは。

 子どもたちがヒマでやってくる阿蘇神社。浄財をなんとか集めて御遷宮した阿蘇神社。まだまだ元気なコミュニティというイメージだが、すでに失われた祭りや習慣もたくさんあるようだ。

 宗教法人でない神社がどのようにして維持運営されているのか? 阿蘇神社を例にしてレポートにまとめたいと思う。とても勉強になった阿蘇神社参拝。このような機会をいただき、本当にありがとうございました。
 今後はもうちっと地域の人たちと交わって、より濃い情報を載せていきたいと思いました。


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