六十四踏み目 味噌喰い地蔵尊
| 味噌喰い地蔵尊
●所在地 |
丘の上のお地蔵さま
中央区の神社めぐりをしている最中に、思わぬところでお地蔵様発見。さほど標高は高くないが、急な坂を登ったところに鎮座まします。
自転車を押して息が切れる。ちょっと足腰の弱いお年寄りにはやさしくない立地だよなぁ、と体感しながら、鳥居? をくぐる。
それにしても、このお地蔵様を良く見つけられたもんだなぁと、我ながら感心する。大人が離合するのも難しい、細い階段をよっこらせと登って、祠に到着。「味噌喰い地蔵尊」の名前のとおり、顔面をミソ樽につっこんだような案配のお顔をした地蔵様にご対面する。
鮮やかな赤いおべべがよく似合う、そんなお地蔵様だが、ご由来を読んでちょっと胸に迫るものがあった。
以前中洲の飢人地蔵様を紹介したが、ここも享保の大飢饉の犠牲者を慰霊する目的で建立されたものだった。
飢饉のとき、福岡藩は荒戸に粥場を設けたという。福岡の南部からは粥場まで、古小烏からこの丘を越えて、城下に至るのが最短コースだったようだ。食べ物もなくやせ衰えた人たちは、丘を登ってくるだけで生命を使い果たし、この丘の上で倒れる人も多かった。 里人たちは、ここで命を落とした犠牲者をあわれに思い、毎年8月24日にミソや握り飯などをそなえて施餓鬼供養をずっと行っていた。その後、飢饉から七十五回忌を迎えた文化五年(1808年)に、大長寺の住職が施餓鬼供養を行い、その際にこの地に無縁塔を建て、地蔵様を据えた。あるとき大願を持った里人が、地蔵尊の顔に味噌を塗り付けてご祈願したことがあった。それから、この地蔵様に祈願する人は、顔に味噌を塗り付けるようになり、人々は何時しか「味噌喰い地蔵」と呼び習わすようになった。ドットハライ。
今年の8月24日で、建立されて丸200年ということ。今でも8月24日にお祭りが行われているようだから、今年はちょっとばかし盛大なものになるのだろうか(ボクは行ったことがありません)。
ご本尊が200年前のものかどうかは分からないが、顔の風化具合を見るとあるいはそうかもしれない。
たくさんの願いを聞いてきたのだろう、顔色は味噌がしみ込んだようになっている。
祠の中、外に寄進され赤いおべべを着せられた石仏、石があわせて七つある。
慰霊から現世ご利益に。生きている人が目的をすり替えてしまった感があるお地蔵様だが、周囲の七つの仏様が「慰霊」の雰囲気をしっかりと漂わせている。
同じ地蔵菩薩をご本尊としていながら、笠地蔵様のように村の境に立つお地蔵様とは意味合いが違う。七十五回忌で建立したのは、七十五という数字に意味があるのではなく、この年月を経て飢饉の惨状を「記憶」に昇華(あるいは消化)させることができたからではないだろうか。
寺社は様々なイメージを伝えるメディアである。祠やお宮といった建物はイメージを蓄えるハードディスクであり、由来や伝説、祭りはコンテンツである。
参拝して、荘厳な雰囲気などによる無線LANやBluetoothみたいにつながると、コンテンツをダウンロードしている。
そうやって味噌喰い地蔵様を改めて眺めてみると、メモリースティックみたいに見えてきた。
ちなみに、現在はお地蔵様の顔に味噌を塗り付けるのは厳禁! である。










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